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“マスター”の二つの意味

大上段に振りかざしていた「パソコンをマスターするってどゆこと?」から3年ほど経ち、少し本人の感覚の方が緩くなってきたような感じがします。

2002.03.

構造的な理解と機能的な理解

数年前、パソコンに関するありとあらゆる質問とトラブルの救済を(非常に気楽なものではあるけれども)求められ続けていたことから作り始めた「説教くさいPC入門講座」改め「PC説教講座」は、一貫して自分で調べろ自分で読め、を基本スタンスとしていました。

このサイトのかなりの初期に、「パソコンをマスターするってどゆこと?」という文を書きました。これを書いたことでサイトの基本方針が決まったと言っていいくらいのものなのですが、自分自身への影響はともかく、読んでいる人にとってはなんだそりゃと思うところもけっこうあったのではないかと思います。「で?」と。あるいは「無理だ」と。

現在は、あのページに書かれていることを求めるのは、いくら脱初心者志向の方でもコクな話かもしれないと思い始めています。もちろんすべてを求める気はさらさらないのですが、その内容が異なる方向性を含んでいることに気づいたからです。

現在の自分はパソコンを理解すると言った場合、その意味は二つあるように思っています。

です。

「パソコンをマスターするってどゆこと?」で期待していたのは、とりあえず“自立的なユーザー”でした。これは基本的にパソコンに関する疑問・トラブルについて自分で調べ、それへの対応が技術的に自分に可能かどうかの判断がくだせるくらいの人を期待していたものです。「全部自分でやれとは言わない、でもこの程度はあんたにもできるよ。ほんとだって。」ということがあまりに多かったので、自分にできそうなことなのかどうかくらいは自分で判断できるように、まずは悪あがきをしてみてほしい、というのが本音でした。

しかしそう思って書いた、序文とも言えるこの文の内容はかなり広い範囲について自分で勉強しろと言ってしまっています。

そして振り返って思ったのは、説教講座は「機能的な理解」の方に偏っているということでした。

今回はこの辺のちょっとした反省と整理を目指します。

構造的な理解

PCの構造的な理解と言えば真っ先に思い浮かぶのはハードウェアに関する話です。でも普通はPCと言えば“機械としてのPC”ではなく、“動いてなんぼのPC”のことを指すと思います。

“動いてなんぼのPC”というのは

の二つの構造があります。特に最近は垂直方向の構造が複雑化し、なおかつ水平方向の構造に関するテクノロジーがいくつも現われたりして、一口に構造的な理解と言ってもなかなかその全体像までは把握できなくなっています。また、適切にその段階をレクチャーすることもかなり難しくなっています。正直言って、構造的な理解についてはどんどんしんどくなってきています。

ただ、こうした複雑化は悪いことばりではなくて、「情報の隠蔽」という意味ではかなり有効な方法であります。

例えば様々なプラットフォームで同じ動作、同じインターフェイスを実現しているアプリケーションは、OSについてユーザーに意識させずに具体的な操作に集中させることができます。それが Windows 98 だろうが MacOS 8 だろうが Linux だろうが、それはユーザーにとって意識する必要のないことになります。

また、TCP/IP という言葉を聞いたことのある人は大勢いると思いますが、この規格は物理的にどのようなケーブルで繋がれているかということをユーザーが意識せずとも通信できるようにしてくれる、画期的な通信方式です。これまでは接続するケーブルごとに通信の規格がバラバラであることが当たり前だったのに、TCP/IP のおかげでユーザーは 10BASE-T だろうが電話線だろうが CATVだろうが衛星通信だろうがインターネットを利用することが可能になります。

このように、構造の複雑化と利便性は表裏一体というか、利便性(もっと言うなら汎用性)のために構造は複雑になっているのです。

しかし同時にひとたびトラブルが起こったときは構造が理解できていないと問題の切り分けができません。何か起きたら即お手上げということになってしまいます。

こうして考えると「構造的な理解は保守・維持のために」ということが言えると思います。

車に例えて言えば車の構造を知らなければメンテナンスはできない、でも操作方法が分かれば運転はできる、ということです。では次に運転の方に話を移しましょう。

機能的な理解

これはもう単純、「何ができるのかを知る」ということです。

例えば PDF という形式を知らなければ Web 上にきちんとレイアウトした文書を、高品位の印刷に耐える文書を載せることはできませんし、ベクトルグラフィックスを知らなければ印刷したときに妙にドットの目立つ画像しか作れません。JPEG という形式を知らなければ狂ったように大きなサイズの画像しか扱えず、ディスクはすぐにいっぱい、ワープロ文書をメールで送ろうにもでかすぎて送れない、といったことになります。その前にメールの添付ファイルというものの存在を知らなければ文書や画像は印刷物として、動画、音声は何らかのテープなどとしてしか交換することができません。

このように「できること」が分からなければ当然それを「利用すること」はできません。

運転する方法とコツが分からないと車は使いものにならないし、高速道路を知らなければ遠くへのドライブはかなり大変になります。

どっちが先なの?

構造的な理解を多くの人に求めるのは筋違いだと思います。そりゃ無理。だって、みんなが構造的な理解をできているのであればエンジンの点検・調整は自分でやってしまってガソリンスタンドの仕事はかなり減ってしまいます。理解している人が少ないからこそ現状のシステムは機能しているわけです。逆に構造的な理解がどうしても必要であったら、今のように自動車は普及していません。普及が進んでいなければ、やっぱり今のようなシステムは機能していないでしょう。免許を取る際に基本的な車の構造については習いますが、あんなもの、覚えている人はほとんどいません。

ただ、ガソリンスタンドで給油してもらい、スタンドでタイヤを替えてもらい、スタンドで洗車してもらっていたら、自分でやるよりお金は掛かります。これは確実。PCの世界では車の世界のように何かあっても命の危険に関わることはほとんどあり得ないので、整備士のような資格もないし、ユーザーの側に切迫感もないので、お金を払うのが少しばからしく思えます。が、知らないことを専門的な知識と技術を持っている人にお願いする場合は必ずコストが発生します。

PCの場合は、最初にある程度の、ごく基本的な構造的な理解についてはあった方がいいけどそれほど重視しない、というのが私のスタンスです。車と違って PC はものすごく多くの機能があり、知っていると知らないとでは違うってことがたくさんあります。車の場合は同じ車であれば基本的に同じだけ働いて(走って)くれますが、PC の場合はまったく同じシステムであっても、使い手に知識がなければ同じだけ働いてくれません。単なるお荷物になるかどうかは、使い手によって変わってくるのです。だから機能的な理解の方を重視してほしい。

それに構造については「何かしようと思ったら必要になってくる」ものなので、そのときに知ればいいかなと思います。例えば何か新しい周辺機器を買ったときとかね。しかし機能については知らないなら知らないなりに使うことができるのです。でも知らないより知っていた方が断然いい。例えばファイルの検索機能を知っているのと知っていないのとではずいぶんと使い勝手が異なります。

そこで説教講座は機能的な理解を促すような内容に偏っています。と思います。そういう風に考えて作ってきたんじゃないかと、いま思うわけです。(あくまで理解するまでつきあうのではなく、情報を提示するだけですがね。)